独りであること、未熟であること
「独りであること、未熟であること
自由であること、楽観的であること」
ちきりんさんのブログに載っていた言葉。胸に刺さった。
今のわたしには、「自由であること、楽観的であること」よりも、「独りであること、未熟であること」の方が圧倒的にリアル。
人が「独り」であることは、事実である。20代、30代の若者が「未熟」であることも、事実である。
「独り、未熟」の反対は「みんな、成熟」だけれど、ちきりんさんの選んだ言葉は「自由、楽観的」。「自由、楽観的」は、「独り、未熟」を認めた上で、さらに成り立つ。
わたしは「自由であること、楽観的であること」も選べるはずなのに、なぜ選べていないんだろう。自分が「独り」であることに傷ついている。人は皆「独り」なのだから、素直に受け入れてしまえばいいのに。
人は人とわかりあえない。誰かと居ても、言葉を重ねても。家族や夫婦、友人であっても。人はそれぞれが見たい世界を見ているだけ。わたしには、わたしのフィルターを通した世界しか見えていない。相手には、相手のフィルターを通した世界しか見えていない。
だから人は、根本的には「独り」である。
「なんでも話せる」
「困ったら助けてくれる」
これは、勘違いである。
まず、「なんでも話せる」という考えは危険である。
人には、言語化しきれない感情がある。そもそもすべての感情を言語化することはできない。人は潜在意識が96%。言語化できたとしても、人に語ることを前提にした言葉は、その相手への感情を反映している。純粋な自分の言葉ではない。自分の感情を言語化し理解するためには、自分だけの言葉で綴る必要がある。
こういった発信側の事情もあるし、受信側は受信側のフィルターを通すので、「何でも話せる」「何でも理解できる」というのは不可能である。
「困ったら助けてくれる」、という考えが勘違いであることは、実体験で知った。
このブログを読んでいるあなたがしにたいくらいつらいなら、わたしは助けたい。夜中でも電話で話すし、遠くでも新幹線に乗るし、手紙も書くし、気晴らしにも誘う。…それが、自然な感情だと思う。実際、これまでそうしてきた。
でも、わたしがしにたいくらいつらいとき、人は驚くくらいつめたかった。わたしのことよりも、仕事や遊びの方が大事なのだ。人は人を、助けないものらしい。元気なときの遊び相手や役に立つときの利用はするけれど、困っている時には距離を置くのだ。ネガティブな発言を聞きたくないのだろう。「あの人は大丈夫。誰かが何かしてくれるだろう。」と楽観的な解釈をする。小さなSOSのシグナルを、悪意なく黙殺していく。
しにたい人がしにたいって言うわけないじゃん。
しにたいって言えない代わりに、苦しい旨をなんとか伝えようとしても、伝わらない。
伝わらなかったのか、面倒に関わりたくないのか。
「しにたい」って言えた人から、「しにたいって言う人はしなない」って言葉が返ってきた。
「しにたい」は「いきたい」という心の叫びだと思う。でも、「しにたいくらいつらい。苦しい。」のだから、何も大丈夫じゃないよ。
今は希死念慮は落ち着いたけれど、人の無関心に対して、勝手に失望して、勝手に不信感を抱いている。
弱っているときは、判断が狂うものなのかもしれない。わたしが「だれも助けてくれない。」と判断したのは、誤解かもしれない。でも、人の記憶に強く残るのは感情。孤独という感情が、傷を残していった。
人は独りだ。孤独だ。それを受け入れきれないわたしは未熟だ。
それでもわたしは、これまで通り、困っている人がいたら、頼まれもしないお節介をするんだろう。そしてその人が元気になって、わたしがしにたいときに元気に遊んでいたとして、それはそれで喜ばしいことなのである。わたしがしにたくならなければいいし、しにたくなっても自力で回復すればいいのである。
写真は京都御苑の桜。